極真空手を学ぶ意義
私が皆さんに最も伝えたいのは、極真空手は「武道」であるということ。そして武道の本来の意味を確りと理解して欲しいということです。
武道とは、相手と戦うための技術を身につけることです。但し、ここで勘違いしてはいけないのは、他人と戦うために武道を学ぶものではない、ということです。
私の師匠であり、極真空手の創始者である大山倍達先生は、いつもこのようなことを仰っていました。「実際に戦うときのために、刀は常に磨いておかなければならない。但し、それを一生使わないでおくことが、最も良いことだ」
この言葉には、私が皆さんに伝えたい「武道本来の意味」の全てが込められています。刀を皆さんが学んでいる極真空手に置き換えればわかり易いでしょう。稽古でいつでも相手と戦えるように技術を磨きながらも、それを実際に使う前に、まずは未然に防ごうとする心掛けが何よりも大切なのです。
武道で学ぶのが戦うための技術である以上、一見矛盾しているように感じるかもしれません。しかし、武道を学ぶ人にとって、実際に相手と拳を交える行為は、最悪の結果に繋がることを憶えておいて下さい。
では、空手の技を使わずに争いを未然に防ぐにはどうすれば良いのでしょうか? それは、自分から好んで危ない場所に行かない、夜道を一人で歩かないなど、危険な目に遭わないように常日頃から心掛けることです。危険な目に遭ってから対応するのではなく、危険な目に遭わないための防衛策を先に考えることこそが本当の武道家のあるべき姿です。
武道を学ぶということは、このような意義を学ぶことでもあります。極真空手の厳しい稽古を通して、実際に戦う技術を超え、様々なことに対する危機意識を養うことが出来るのです。
礼儀は自然と身につくもの
親が子供に極真空手を学ばせる理由のひとつに、礼儀作法を身につけさせたいという思いがあるようです。確かに、最近の子供たちの言葉の乱れや、礼儀をわきまえない行動は目に余るものがあります。私は一人の大人として、こういった風紀の乱れを正していかなければならないと常々感じています。そして、それが出来るのが武道であり、極真空手であると確信しています。
極真空手には「礼に始まり、礼に終わる」という言葉があります。稽古の最初と最後に相手に対して尊敬の意味を込めて必ず礼を行うという意味です。つまり、極真空手の稽古そのものが礼儀作法を学ぶ場なのです。「礼儀は形から」と言いますが、このように稽古の中で礼儀作法を実践することで、さらに他人を尊敬する心を養うことが出来ます。
例えば、今まで人と話をするときに大きな声で返事が出来なかった子供が、稽古を通して大きな声で返事が出来るようになると、周りの子供たちはその子を改まった目で見るようになるでしょう。
また、極真空手では両手で挨拶することが礼儀であると教えています。両手で相手から物を渡されることによって、自分も両手で受取らなければならないという気持ちが湧いてきます。今までの視野ではなく、新しい視野が開けることで、他人に対する尊敬心が自然と芽生えるのです。
こういった礼儀をサッカーや野球を通して子供たちが身につけることが出来るでしょうか? たとえ挨拶が出来ていたとしても、練習の中で他人を蹴落とすために相手を野次
る子供たちを、注意するどころか率先してやらせるような指導者が多いと聞きます。これでは、相手に対する尊敬心など生まれるわけはなく、相手からも尊敬されることはないでしょう。これこそが、スポーツが教えられる礼儀の限界だと私は思うのです。
少年非行〜いじめに導くもの
ここ数年、少年・少女たちが起こした、または巻き込まれた犯罪のニュースを毎日のように耳にします。こういった少年の犯罪や非行問題は、決して今に始まったことではありません。過去にも社会問題として大きく取り上げられた時期がありました。家庭や学校での暴力事件が全国的に多発した1970年代後半から1980年代前半のことです。
この背景には、戦後に生まれ育った、「団塊世代」といわれる人たちが受けた教育や生活環境の影響があったと考えられます。戦後の日本は、とにかくものが不足し、誰もが貧しい生活を送っていました。そしてそんな時代に生まれ育ったのが、「団塊世代」の人たちです。
ところが、その団塊世代の人たちが大人になる頃、日本は高度成長の時代に入り、人々はたくさんのお金を得ることが出来るようになりました。そして親となった団塊世代の人たちは、自分が小さい頃貧しくて苦労した分、自分の子供には苦労かけまいと、子供を甘やかして育てるようになったのです。そうして甘やかされて育った子供たちが、親や友達に暴力を振るって問題になったのが、1970年代後半から1980年代前半でした。
しかし、現在の少年たちの非行・犯罪は、当時とは質が変わってきているように感じます。昔は、悪い子は悪い子なりの雰囲気があったものですが、現在は優等生の子供が何食わぬ顔で犯罪を犯すのです。時代が流れ、団塊世代の親のもとで育てられた20〜30年前の非行少年たちが親となり、自分の子供に対する教育を放棄し、さらには虐待が増加したことなどが原因のひとつであるように思います。虐待を受けた子供たちはどうなるのかといえば、今度は自分が逆の立場になって陰湿ないじめに走るのです。
見た目は本当に普通の子供が集団でいじめに参加しているのが実態です。しかもそこには人間としての最低限のルールなど全くなく、相手をとことんいじめ抜く・・・。私は20年、30年前の少年非行より、現在の方が根深い問題を抱えていると考えています。
では、人の痛みを感じることの出来なくなった子供たちに対して、私たち大人は何をするべきなのか?それは、まさに「痛み」や「苦しみ」「悲しみ」などを教えることだと思います。
仮に極真空手を学んでいる子供がケンカをしたとします。その子供は、空手の稽古の中で叩かれることの痛みや苦しさを知っているため、相手の感じる痛みも自然と理解しています。また、負けたときの悔しさや悲しさもわかるため、負けた相手に対する思いやりの気持ち、労りの気持ちも出てきます。これは実際に相手を叩いたり、叩かれたりする、極真空手でなければ学べないことです。痛みや悲しみを知っていれば、相手に与えるダメージの限度も直感的にわかるものです。しかし、それが今の子供たちは全くわかっていません。
私はこれまで、全国から色々な問題を抱えた子供(非行少年など)たちを道場で預かってきました。ちなみに、私が最初に只一つ彼らに守らせたのは、とにかく道場の稽古に参加するということだけでした。しかし、それで十分なのです。稽古では、大きい声で挨拶や返事をしなければなりません。先輩の言うことをきちんと守らなければいけません。人に対して両手で挨拶し、両手で物を受取らなければいけません。そういった中で、子供たちには自然と相手に対する尊敬の気持ちが芽生えはじめるのです。勿論、稽古で組手をすれば、叩かれたときの痛みや苦しみも自然と理解出来ます。預かった子供たちは、皆1ヵ月、いや1週間で態度が変わります。その度に、子供たちの親はなぜこんなに変わるのかと必ず驚きます。極端な言い方をするならば、人間として成長するために足りない部分の全てを極真空手の道場で稽古を通して補うことが出来ると私は思っています。